1月23日は、不安と期待を抱きつつ待っていた日。
年末に摘出した卵巣腫瘍の確定診断が聞けるはずだから。
ところが医師から聞かされた言葉は、
「まだ病理の結果が出てないそうなんですよ。今さっきも電話してみたんですが・・・。」
また2週間ほどしてから、改めて結果を聞きに行くことになった。
やだなあ、この暫定状況がまだ2週間か。
手術の傷に関してはきれいになっているとのこと。
浴槽に浸かってはダメ。
重たいものはもっちゃダメ(抱っこ、おんぶもできない)
自転車にもなるべくならないで。
等々の禁止事項・注意事項がすべて解除された。
そういう意味でよい日ではあったが…
新たな気がかりも首をもたげてきた。
1月23日という日は、年末年始を挟んで通常より診断に時間を要することを想定したうえで、設定した日。
手術後、4週間ほど。
そのうち1週間を年末年始分だと考えても3週間。
こんなにかかるなんて、診断が難しい面でもあったんだろうか?
術後すぐ、執刀医が摘出した現物を見せながらボクに話した際は、ほぼ良性と見て間違いなさそうな内容だったという。
今回、それと同じような話を引き出そうとした私に返って来た言葉は、
「典型的な良性というのは、腫瘍の中身が液体で満ちている例。Majaさんの場合、充実部分(肉が詰まっている)がかなりあるんです。典型的な良性の様態ではないので、現時点ではなんとも…」
だった。
なんか雰囲気が変わってるぞ。
外来でお世話になっている医師は、執刀医とは別の医師(少し立場が上の)。
だから、違うことを口にしてもおかしくはない。
けど―
細胞診の経過報告みたいなものがあって、医師はそれを知っていて、しかし確定ではないから私には言えないだけなのかも。
その内容があまりよくないものなのかも・・
帰りのバスに乗ってから、妄想が広がってきた。
95%くらい良性だと楽観していた私のソフトな視界が、急にクリアになったような気がした。
初めてメガネをかけた人が、自分がいる世界にあるものの輪郭や色彩の鮮やかさに目を見張るみたいに。
今まで見ていた世界がいかにぼやけて曖昧だったか知るんです。
自分がいかに普段、たるんで生きているか、ぼんやり暮らしているか知るんです。
死というものが、現実的なものとして立ち現れるからだろうか?
誰しも免れない死を直視することを避けようとして、人間は普段、無自覚的に世界をぼかしてみているのかもしれない。
でも、その夜、ひと月ぶりに浴槽でゆっくり温まりながら思った。
あーあったかい、あー幸せ。
命に関わる問題に比べれば、浴槽で温まれるかどうかなんて些細なことだけど。
人生は、日々の些細なことの積み重ね。
些細な幸せあってこその、惜しむべき人生。
だからあったかいお風呂も軽んじるべきじゃないでしょ。
でもしかし、、
翌日、スイミング帰りのきょうちゃんと夜道の帰途についているとき。
数歩前を、踊ったり跳ねたり山ほど無駄に動いて、巣立ちの練習をしているヒナみたいに行くきょうちゃんの後ろ姿をみていると、そこはかとなく悲しくなってきた。
また当分、楽観と悲観の間を行ったり来たりだな。
少々楽観寄りで。
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